探究日記

20代前半の若者が日々感じ取ったことを綴ります。

観光とグローバリズム

  今週の月曜からバイト先で知り合った外国人男性と二人で富士山に来ている。彼が行く予定だったところに僕もついて行くことになったのである。どのように知り合い、なぜついて行くことになったかは、またの機会に書くことにして今回は割愛する。

  彼は現在70歳で、富士山の麓の樹海「青木ヶ原」を探索することが目的であった。青木ヶ原東尋坊と並び自殺の名所として有名なところである。彼は6日間滞在する予定だが、ほとんど全ての時間を青木ヶ原で過ごしたいという。

  70歳の老人が自殺名所を探索すると聞いて、読まれている方は危険な匂いを嗅ぎつけたことだろう。実際、危険な匂いはプンプンしている。が、「大丈夫だ。問題ない。」「俺は人類学者で、自殺を研究しに来ただけだ。」と言っていたし、非常に親切で、人類愛が滲み出ている、そんな雰囲気を持っているので、ひとまずは大丈夫そうである。

  彼と過ごした旅行については書きたいことは非常に多いが、今回、彼とは別行動をした水曜日、まさに今日に感じたことを書きたいと思う。

  今日は彼はもちろん青木ヶ原へ向かったのであるが、僕は流石に青木ヶ原だけに行くのは退屈だと思って、違う場所に行くことにした。僕が決めたのは河口湖だ。ジャスト河口湖。僕らは河口湖駅で別れ、それぞれの目的地へと向かった。

  河口湖駅周辺は、山梨県の田舎とは言え、パスを少し走らせれば、ちらほらとある観光スポットへ行くことができる。富士山の力を借りることで、なんとか観光地として息をしており、潰れた店、潰れそうな店も見かけるが、観光客で賑わってる店も多い。その差はおそらく外国人ウケするスタイルを採用しているか否かにあるだろう。それほどまでに、観光客の外国人率が高いのだ。

  事実、来てみたらすぐに分かることだが、バスの中も街の道路も店の中も、そこにいるのはほとんどが外国人である。山梨の山奥の田舎にも関わらず、街で楽しんでいるのはほとんどが外国人である。

  まるで外国人に日本人が労働させられているような感じがする。彼らに仕え、彼らのために生きている、観光地の人たちは一体何のために、何を目指して生きているのだろうか。奇妙な感じしかしなかった。

  そんなこと今に始まったわけではないが、改めて実際に観光地へ降り立ち、街を歩いてみると、この奇妙な感じが胸につっかかる。(だから今これを書いているのである。)

  街を歩けば聞こえてくるのは、英語と中国語。有名なレストランに行けば中国人で埋め尽くされており、満席で入れない。店のメニューや標識には日本語だけではなく、英語や中国語も記載されている。バスの中でも運転手のカタコトの英語が聞こえ始めている。

  純粋な日本はもはや存在しない、というより存在できない。外国人へ仕えなければ、待っているのは閉店だ。我々日本人が生きるためには、純粋な日本人はやめなければならない、そんな気さえした。

  疲れがたまっていた僕は温泉に行くことを考えた。河口湖周辺は温泉街として有名で、多くの温泉施設が立ち並んでいるので、どこに行こうか迷った。

  いかにも伝統的、という旅館を見つけたので、そこの旅館の日帰り温泉に入ることに決めた。しかし、カウンターには誰もいなかった。

  誰もいなかったので、置いてあったベルを鳴らし、「すみません。」と言って、店の人を呼んだ。すると奥から現れたのは、日本人ではなく、なんと中国人だった。僕と同じくらいの歳の中国人の好青年だった。

「ここの旅館って、温泉だけ入ることはできますかね?」

「はい。ただ、温泉は3時からです。」

「3時からですか…。ところで、あなたは中国人ですか?」

「はい、中国人です。」

「どうして、ここで働いているんですか?」

「大学に行くためにお金貯めてます。」

「日本の大学ですか?」

「日本の大学です。」

「そうでしたか、頑張ってください。応援してます。」

「ありがとうございます!」

  興味本位で聞いてみた。彼は愛想よくカタコトの日本語で返してくれた。大学に通うためにここで働いているとのことだった。しかし、なぜここなのか。なぜ、日本の大学なのか。疑問はたくさん浮かんだが、これ以上聞くのはやめた。

  旅館を後にした。世界には本当にいろんなバックグラウンドを持った人がいるのだな、そう思った。一緒に来ている70歳のアメリカ人と話してても思うが、日本人のコミュニティにいるだけでは見えてこない世界は思ってた以上に広大で深遠であるに違いない。

  また、日本の観光地で、しかも伝統的な旅館で、お客ではなく、もてなす側として外国人が働いているという事実にも衝撃を受けた。実に奇妙であった。日本人が外国人に仕えているだけでなく、外国人に侵略されている、そんな気さえ少しした。

  これが現在の観光地の現状なのだろう。グローバリズムと日本の衰退によってもたらされた結果なのだろう。

  もちろん、これにはいい面がある。日本の文化的価値を世界に広めるきっかけにもなるし、日本人が外国人と触れ合うきっかけにもなる。世界が国という抽象によって分断された時代が終わり、国際国家の到来を予感する、平和を感じる瞬間にもなる。

  しかし、古き良き純粋な日本的雰囲気は失われていることは事実である。日本人の精神的な拠り所を、日本のリアルな場所に見出すことが難しくなっていることは確かなことだろうと、実体験を通して思った。

  全てのことには良し悪しがある。グローバリズムと日本の衰退という二つのことに関して、僕たちはもう少し真剣に向き合い、良し悪しについて考えないといけないのだろう。

  今、中国人の彼と出会った旅館の近くのカフェでこの文章を書いている。横にはフランス人の若い女性が座っている。とびきりの美人である。グローバリズムの問題は想像以上に複雑なのかもしれない。f:id:hesseline:20191202231029j:image