探究日記

20代前半の若者が日々感じ取ったことを綴ります。

「社会に排除された存在」と「時間の作用」

  昨日は朝6時に起きた。日曜は8時から写真撮影のバイトがあるので早起きしなければならないのだ。

  前日、寝た時間は1時半とか。睡眠時間はざっと4時間半。起きるのに一苦労どころの話ではない。目覚ましが鳴り響く部屋で、今日が日曜日でバイトがあるということを再認識し、勢いよく飛び起きた。勢いよく起きれたのは良いものの、ものすごく眠く頭が痛い。

  前日、夜中に辛いものを食べてしまっていたのでお腹も痛かった。僕は昔からお腹が弱く、すぐにお腹の調子を崩す。そのくせ刺激物を好む。なんとも矛盾に満ちた生き物だこと。

  そんな絶望的なコンディションで1日が始まった。仕事場は自転車で40分あるところなのでグズグズしていられず、絶望的な気分を無理やり追い払って出かける準備をした。

  日曜の朝は人も車も少なく、自転車を漕ぐには最適な時間だ。いつもこの時間は漕ぎ時を感じる。

  僕は気分を晴らすためと日頃の運動不足解消のため全力で自転車を漕いだ。冷たい空気が肌にあたり、少しだけ気分が変わった気がした。 (刺激というのは変化をもたらす。変化欲求をもつものが生物であるのだから、刺激を好むこともきっと間違っていない。そう、自分の刺激物指向も正当化できそうだ。)

  お腹が痛かったこともあり、途中コンビニで用を足した。お昼ご飯を買うために毎週決まったコンビニに行くのだが、そこのコンビニで用を足した。もちろんお昼ご飯も買った。

  毎週同じ店員が一人レジに立っているのだが、日本人ではない。ものすごく疲れている顔をしながらカタコトの日本語で接客してくれる。

  彼ら、安い給料で大変なことをさせられる彼らに対しての見方が、ここ数年明らかに変化していることを感じた。以前であるなら、見下す対象、反面教師として捉えていたのだが、今の僕は彼らのことを資本主義の限界を物語る証人、人間性を考察する上で貴重な存在、正直に生きている人と捉えている。

  彼らをレヴィナスの言う意味での、倫理的対象として見なせる人がこの日本社会にどれだけいるだろうか。自分の体系の中の一部に位置付け、価値の序列をつけ、見下す人が大半ではないだろうか。倫理の退廃的状況は今すぐ見直されるべきである。

  トイレに行っていたためバイト先に着くのが少し遅れてしまった。先輩、プロのカメラマンで10年くらい働いている人、ただし今も僕と変わらない時給で働いている、が既にほとんど全ての準備を終わらせていた。

  彼は僕が遅れてきたことに対して何も言わずに快く迎えてくれた。

  「ほとんど終わっちゃったよ〜。掃き掃除はやっておいてくれる?」

  とても優しい語り口で僕に指示を出した。彼は誰に対しても、どんな時でもその人の背後を考慮して接することができる、心の暖かい人間だ。こういう客観的に数値化できない価値は社会に見捨てられる。人間にとって重要であるはずの愛とか、倫理とか、それこそ社会とかの基盤を作り出すものであるにもかかわらずだ。なんとも価値の逆転した世の中であること。

  聞いたところによると、彼女がいて、数年後には結婚をする予定だそうだ。彼女の方も訳ありな感じだったが、詳しいことは知らない。それでも、この価値の逆転した世の中で、逆転させずに生きている彼となら、きっと彼女の方も幸せになるだろう。ささやかながら応援しています。

  仕事が始まった。仕事は写真を撮る瞬間と販売のセールストークの際には多少の神経は使うものの、それ以外はほとんど単純作業なので苦痛は少ない。

  こちらの方のバイトでは、上司からの理不尽なことも減ってきたので、だんだんと居心地の良い場所になりつつあるくらいだ。始まった当初は想像もつかなかったことだが。

  時間というものが物や心に及ぼす影響は計り知れない。全く、時間というのは不思議なものだ。また今度時間についてじっくり考察してみようか。以前読んだカントの時間論と永井均の時間論はとても面白かったことを思い出した。

  仕事はいつもとは何も変わらず、淡々と時間は流れた。決まった言葉で客引きをし、決まった角度でシャッターを切り、お得意のセールストークで写真を売る。この三つの繰り返し。あっという間に5時になった。

  仕事が終わった後、今日は特別にとある会社の副社長である知り合いとご飯をすることなっていたので自転車を少し走らせ街へ向かった。

  街はクリスマスムードに切り替わりつつあり、寒い冬の夜に暖色を灯していた。

  少しご飯までには時間があったのでプログラミングを勉強した。お金もないのでセブンイレブンのイートインコーナーで。

  隣の隣の席には同じように作業をしている社会人。向かいの席には女子大生がたわいもないおしゃべりをしている。ユニバがどうとか、彼氏がどうとか、そんな話をしていた。

  全く異なるタイプの僕らが、一つのセブンイレブンという建物の中でそれぞれの目的意識に合わせて行為している。このことを意識するととても不思議なことだと思うと同時に、これが人間社会なのだと思った。

  本来ならば一緒にいられないはずの人たちが、一緒に要られるようなする枠組み、それが社会である。そのためにルールが必要で、それに従わなければならない。

  社会なんていらないと思う人、ルールに従いたくない人、そんな人たちにとってはお節介にもほどがある。しかし、その社会からは逃れられない。社会の側がこれを強要するのだ。それが今の世の中となっている。

  多様性のある社会を!と言うが、社会である時点で多様性は制限されている。これは自覚的にならないといけないだろう。犯罪者は社会から排除されているのだから。本当の多様性は犯罪者に対する理解を通してのみ可能である、そう思う。カミュなどを読むのが良いだろうか。(もちろん犯罪を犯すべきなどと言っているわけではない。)

  待ち合わせの時間になった。副社長にお高いステーキ屋に連れて行ってもらえた。美味しいステーキを食べることができたし、スキルアップにつながる案件ももらえそうなお話をしてもらえた。少しずつであるが僕も社会の側に参画しつつあることを胃と脳と、あらゆるものを通して感じた。

  冷たい夜風に当たりながら、今日1日を振り返り家へ向かった。本当に何気なく過ぎていく毎日だが、この毎日が歴史を作り、社会を作っているのだと思うと感慨深い。

  写真とプログラミングと社会と、そして時間について、感じたことを思うがままにズラッと書き連ねていった。

  もう月曜の夜中である。昨日のことが一年前のことのように、遠い日のように思える。なぜだろう?現在と過去とでは、明らかに大きな違いがあるが、これは感情や刺激という観点以外に大きな差はあるだろうか?時間が許せば考えていきたいテーマである。