探究日記

20代前半の若者が日々感じ取ったことを綴ります。

夜風とともに

 昨日は一日暗い日だった。一昨日やってしまった失敗に俺の精神が捕らえられ、それから逃れられずに苦しんでいた。

 つくづく思うのは、俺はヘタレだということ。失敗による後悔の感情に支配されることが多い。そのことを一日中考えてしまい、何もできなくなってしまう。おそらく誰も気にしていないような、些細な言葉のミスでも、自分にとっては一大事である場合には、どうしようもなくそのミスを、頭の中でなんども反芻してしまい、そのことから逃れられなくなってしまう。

 「あぁ、生きることが苦しいよ。」こんなことをことをつい思ってしまう。もっと前を向いて生きたいけど、どうしても、こんな泣き言を心の中では呟いてしまう。みんなそんなもんなのだろうか?と思った時期もあった。でも、実際はそんなことなく、皆些細なことには気にも留めずに、次の日にはけろっとしていることが多い。

 昨日は、そんな苦しい中でもバイトに行かなければならなかった。こういう暗い日の方が、実は理不尽なことに耐えられるのである。実際に、昨日も理不尽な対応をいくつか受けたが、何も感じず、受け流すことができた。結局人間なんてそんなもんで、心に余裕がある人が一番純粋で、いろいろ感じてしまうのだ。(待てよ、そう考えると、俺はすごく純粋で貴重な存在ということなのか?そういうことにしておく。そして、この感情の起伏が行動のエネルギーになっているような気もするから、見方によっては悪いことではないのは確かだ。)

 バイト終わりに映画館に行ってみた。何かこの苦しみを和らげてくれる作品が上映されてはいないかと探してみたが、なかった。最近の映画は大衆受けする作品ばかりで、深く感動することはない気がする。もっと心をえぐってくる作品、人生の喜びと苦しみを同時に感じさせてくれるような、作品を作って欲しいと思う。

 僕は映画館を後にした。かつては同士が集う場所のように思えた映画館が、その本性を露わにし、結局は”娯楽”なのだということを、おしゃれな人々と明るい館内の雰囲気、そして作品の広告文が僕に語りかけた。「君はここでは満足しないよ。他へ行け。」

 サウナに行った。サウナの受付の女性が綺麗だった。長い黒髪をまとめていて、肌は白く艶があり、目はパッチリとし潤っていた。若い男性客があまり来ないのか、僕と話す時には少し緊張したようにしており、その仕草、その喋り方が、まだこの世の汚いものに汚染されていないことを象徴していた。このような若い女性の中にある、精神的な清らかさ、あどけなさに、ついつい惹かれてしまう。「ああ、君のような女性ともっと関わっておくべきだった!」

 サウナは圧倒的快楽だ。100度近い室内で全身の汗を、これでもかというくらいに流しきり、火照った体を水風呂で一気に冷やす。開いた毛穴が一瞬にして、キュッと引き締まる音がし、全身が自慰行為を終えた時のインポのような感覚を受ける。サウナの中にいる時は、一種の祈りのような行為をし、精神的な安楽も得られるという。

 苦しみを感じている時はなおさらこのサウナの快感が強烈になる。しかし、なぜなのか。仕事終わりのビールが美味しく感じるのは。

 僕の行ったサウナでは、夜の決まった時間にヨガレッスンのサービスを受けられる。体をほぐしたいと思ったので、参加してみた。そのヨガレッスンは、おっさんで溢れかえっているサウナ室の中で行われるのだが、やってきた先生は中年の綺麗なお姉さんだった。本当におっさんで埋め尽くされた空間だったので、お姉さんを気の毒に思った。内心ではどんなことを思っていたのだろうか。どこにいっても理不尽なことはある、このことが僕の頭によぎった。

 僕は彼女の真正面に座り、指導を受けた。ヨガは心と体のバランス調整にとても良い、レッスンを通じてそう思った。

 サウナを出て、温まった体で、初冬の夜の風に吹かれながら自転車を漕いで、家へ向かった。最近寒くなって毛嫌いしていた夜風が、なんだか気持ちよく感じられた。肌に突き刺す夜風に同類感情を抱き、仲間意識を持った。帰り道、僕は夜風と一体となった。苦しむ人こそが、人を慰め救うのである。そう思いながら、僕は夜風とともに、夜の道の中へと消えていった。