探究日記

20代前半の若者が日々感じ取ったことを綴ります。

我らの時代

 バイト先の会社が倒産した。前触れもなく突然に。

 来年からの海外滞在期間、プログラミングでこれから稼いでいこう思っていたので、相当なショックである。プログラミングのスキルアップさせながら、海外でのんびり過ごすという夢が打ち砕かれた。

 まだ海外への出発までには時間がある。それまでに、他の会社を探すか、それとも海外ではプログラミングで稼ぐことはしないと割り切るかの二択で決めなければならない。(正確には海外でIT会社を見つけるという3つ目の選択肢もあるのだが、これはあまり現実でかではない。)

 この年末(既に年は明けているが…)はきっとほとんどの人が来年への期待で胸が膨らんでいるのだろうが、僕はその逆、期待が裏切られた。どうにか前向きに捉えようとしてみても、今後の自分の人生設計がくるったような気がして、うまく解釈できない。

 なんか、最近ついてないな。良いことが少ない気がする。これには僕の思考や行動に責任があるのか?僕が自分で撒いた種なのか?

 新年のスタート。実家で久しぶりにテレビを見たが、テレビに出てくる人たちは"苦しみ"を感じたことがあるのか?と聞いてみたくなるほどに、キラキラと輝き、踊って歌ってしている。幼い頃は僕も彼らのようにキラキラ輝く大人になって、彼女を作って、将来に希望を感じ、素敵な毎日を過ごすんだろうと思っていた。しかし、現実は甘くなかった。

 この先もきっと良いことはもちろんあるだろう。が、その一方、悪いこと、失望し絶望し、悲しみ、苦しむこともそれと同じか、それ以上にたくさんあるのだろう。

 反出世主義の議論に、この喜びと苦しみの非対称性の議論が出てくるが、この失望の淵にある今は、ハッキリとこの非対称性が理解できる。「苦しみが続くこの世の中で、生が誕生することが良いことであるか?」という問いに対して、はっきりとYESと言いきれない自分がいる。

 僕は生を肯定したい。そう今でも思っている。しかし、生を直視してみた時、そこに現れてくるのは無知と苦しみである。

 地元に帰ってますます実感する。精神が不安定な兄弟、単純作業の仕事に嫌気が差している友人、給料の上昇の見込みのない仕事をしている友人、過去のトラブルにより大学を辞めた友人…。もちろん成功という道を歩んでいる者もいる。しかし彼らの中には無知が潜んでいる。自らの成功を自慢し、弱者を顧みない態度が。(まるでテレビに出ている、あのキラキラ輝くスターみたいな大きな態度を取るのだ。)

 格差は広がる一方であり、人々の心の距離は遠くなる一方である。ピンカーの言うように、表立った暴力の数は明らかに減っているが、その一方で、内側に秘められた苦しみは増加している。こんな世の中こそ、我らの時代なのでないだろうか。

 さてと、新年一発目から、海外での生活をどうするか、今一度考え直さなければならない。いっそのこと底の底まで落ちてみるのもありだろうか。

 ただ、いずれにせよ、どんなことをするにしても、生の肯定のため、自らに課す倫理は守り続けたい。「偏見なく見るなら人はみな平等である」という倫理を。我らの時代を生き延びる偉大な知恵であると信じて。