探究日記

20代前半の若者が日々感じ取ったことを綴ります。

幸福のパラドックス

 今日も体調が優れなかった。起きたのは昼過ぎの12時半ごろで、頭がぼーっとしていた。起きた瞬間から絶望的な気分で、なにもやる気が起きなかった。

 そうとは言え何かしらしなければならなかった。「何かしなければいけない」という見えない圧力が僕を圧迫し、押し付けてくる。この圧力に囚われたのは一体いつからだろうか。この圧力は社会的な要因によって引き起こされている?それとも個人の観念上の問題?両方?様々な疑問が頭の中を交錯した。

 結局やることにしたのはプログラミングだった。今の僕の精神を一番満足させてくれるのは、お金につながることで、それが僕にとってはプログラミングだった。

 vueCLIの使い方を勉強していたが、頭がぼーっとするため集中が続かない。仕方なく外出し、お気に入りの本屋にあるカフェで勉強することにした。

 カフェには沢山の人がいた。流石に土日は平日とは違って、人でごった返していた。普段なら人がいっぱいで嫌な気持ちになるのだろうが、頭がぼーっとしていたせいか、何も思わなかった。

 座ってプログラミングの勉強の続きをやった。多少の進捗はあったが、やはり集中が続かなかった。学校の倫理についての課題もやろうとしたが、結局texの下準備だけして本題には移れなかった。

 倫理については少しだけ考えた。動物倫理について考えろという課題だったが、僕にとって倫理とは感情移入可能性の問題であり、その感情移入可能な際に、自分にされたくないことは他の対象にもしてはいけないという要請が倫理法則として取り出されることであり、極めて主観的な事柄である。そのため、どうも自然主義的な態度が前提とされている現代の動物倫理は倫理っぽくないと思ってしまう。そして、こう考えると、やはり人間のみが倫理的な振る舞いをすることができるのだと思えてしょうがない。動物に自分を対象化し他の対象に代入するといった感情移入が可能だろうか?そして、その代入操作を対象化し法則を取り出すといったメタな思考が可能だろうか?不可能だろう…といったようなことを考えていた。

 課題もプログラミングも捗らなかったので、カフェを出て、本屋をぶらぶらしてみた。目に止まったのは、「いま、地方で生きるということ」「マイケル・K」というタイトルの本だった。

 最近、YouTubeで、ニートの若者が限界集落へ引っ越し、居場所を見つけて幸せに暮らしている、という動画を見たので、自然と目に止まったのだろう。

 動画を見たり、パラパラとその本を読んでみて思ったことは、結局、人間というのは、観念からなのか社会からなのか分からないが、自分を束縛するあらゆる圧力から解放されることを願い、精神的自由の獲得を求めて行動するのだ、ということである。(そして、その精神的な自由さから、倫理、つまり感情移入可能性というものが生じうる、と考えているのだが…)

 動画の中のニートの一人が「何も考えないことが一番頭にはいいんですよ」と言っていたセリフが印象的だったが、その通りである気がする。

 考えることはある意味では観念に囚われることである。行動するということはある意味では社会に囚われるということである。

 精神的な自由を求めて、原初の状態に帰るという選択肢はもしかしたら、一番賢い選択なのかもしれない。彼らは一番正しい選択をしたのかもしれない。

 ただし、こういうこと一番考えるのは、一番囚われた身になっている時であるという逆説がある。これはある種の幸福のパラドックスのなだろう。

 あぁ、考えて幸せとは何たるかを概念的に知るのが良いか、考えずに幸せそれ自体をを享受するのが良いか、どちらか一つを選ばねばならない。(これは「幸せだった」感じたのは、幸せではなくなったから、というかつて友達と議論したことに似ている。)

 さてと、観念の圧力に押されてこんなことを書いたが、その圧力も弱くなってきたので、そろそろ終わりにしよう。今日はせっかくここまできたのだ、サウナにでも行って疲れた精神を癒しにでも行こうか。また明日はバイトだし、社会からの圧力は否応なしにやってくるのだから。