探究日記

20代前半の若者が日々感じ取ったことを綴ります。

最近思ったこと。

 なんか、もう少し日常が楽しくなるような記事を書きたいなぁと思いました。

 振り返ると、汚らしい記事ばかり書いていた気がします。タイトルはかっこいいけど、中身がない、そんな記事ばかり。なので、汚らしいと思った記事は、全部非公開にしました。

 あと、もっと日常に寄り添って、日常が楽しくなるような記事を書いてみたいと思うようになりました。なので、文体も軽い感じで、スラスラ読めるような文章で書いていきたいと思います。

 その中でも、伝えたいことを伝える努力は怠らずに…。なんとか自分にぴったりな表現方法を模索していけたらと思います。

我らの時代

 バイト先の会社が倒産した。前触れもなく突然に。

 来年からの海外滞在期間、プログラミングでこれから稼いでいこう思っていたので、相当なショックである。プログラミングのスキルアップさせながら、海外でのんびり過ごすという夢が打ち砕かれた。

 まだ海外への出発までには時間がある。それまでに、他の会社を探すか、それとも海外ではプログラミングで稼ぐことはしないと割り切るかの二択で決めなければならない。(正確には海外でIT会社を見つけるという3つ目の選択肢もあるのだが、これはあまり現実でかではない。)

 この年末(既に年は明けているが…)はきっとほとんどの人が来年への期待で胸が膨らんでいるのだろうが、僕はその逆、期待が裏切られた。どうにか前向きに捉えようとしてみても、今後の自分の人生設計がくるったような気がして、うまく解釈できない。

 なんか、最近ついてないな。良いことが少ない気がする。これには僕の思考や行動に責任があるのか?僕が自分で撒いた種なのか?

 新年のスタート。実家で久しぶりにテレビを見たが、テレビに出てくる人たちは"苦しみ"を感じたことがあるのか?と聞いてみたくなるほどに、キラキラと輝き、踊って歌ってしている。幼い頃は僕も彼らのようにキラキラ輝く大人になって、彼女を作って、将来に希望を感じ、素敵な毎日を過ごすんだろうと思っていた。しかし、現実は甘くなかった。

 この先もきっと良いことはもちろんあるだろう。が、その一方、悪いこと、失望し絶望し、悲しみ、苦しむこともそれと同じか、それ以上にたくさんあるのだろう。

 反出世主義の議論に、この喜びと苦しみの非対称性の議論が出てくるが、この失望の淵にある今は、ハッキリとこの非対称性が理解できる。「苦しみが続くこの世の中で、生が誕生することが良いことであるか?」という問いに対して、はっきりとYESと言いきれない自分がいる。

 僕は生を肯定したい。そう今でも思っている。しかし、生を直視してみた時、そこに現れてくるのは無知と苦しみである。

 地元に帰ってますます実感する。精神が不安定な兄弟、単純作業の仕事に嫌気が差している友人、給料の上昇の見込みのない仕事をしている友人、過去のトラブルにより大学を辞めた友人…。もちろん成功という道を歩んでいる者もいる。しかし彼らの中には無知が潜んでいる。自らの成功を自慢し、弱者を顧みない態度が。(まるでテレビに出ている、あのキラキラ輝くスターみたいな大きな態度を取るのだ。)

 格差は広がる一方であり、人々の心の距離は遠くなる一方である。ピンカーの言うように、表立った暴力の数は明らかに減っているが、その一方で、内側に秘められた苦しみは増加している。こんな世の中こそ、我らの時代なのでないだろうか。

 さてと、新年一発目から、海外での生活をどうするか、今一度考え直さなければならない。いっそのこと底の底まで落ちてみるのもありだろうか。

 ただ、いずれにせよ、どんなことをするにしても、生の肯定のため、自らに課す倫理は守り続けたい。「偏見なく見るなら人はみな平等である」という倫理を。我らの時代を生き延びる偉大な知恵であると信じて。

幸福のパラドックス

 今日も体調が優れなかった。起きたのは昼過ぎの12時半ごろで、頭がぼーっとしていた。起きた瞬間から絶望的な気分で、なにもやる気が起きなかった。

 そうとは言え何かしらしなければならなかった。「何かしなければいけない」という見えない圧力が僕を圧迫し、押し付けてくる。この圧力に囚われたのは一体いつからだろうか。この圧力は社会的な要因によって引き起こされている?それとも個人の観念上の問題?両方?様々な疑問が頭の中を交錯した。

 結局やることにしたのはプログラミングだった。今の僕の精神を一番満足させてくれるのは、お金につながることで、それが僕にとってはプログラミングだった。

 vueCLIの使い方を勉強していたが、頭がぼーっとするため集中が続かない。仕方なく外出し、お気に入りの本屋にあるカフェで勉強することにした。

 カフェには沢山の人がいた。流石に土日は平日とは違って、人でごった返していた。普段なら人がいっぱいで嫌な気持ちになるのだろうが、頭がぼーっとしていたせいか、何も思わなかった。

 座ってプログラミングの勉強の続きをやった。多少の進捗はあったが、やはり集中が続かなかった。学校の倫理についての課題もやろうとしたが、結局texの下準備だけして本題には移れなかった。

 倫理については少しだけ考えた。動物倫理について考えろという課題だったが、僕にとって倫理とは感情移入可能性の問題であり、その感情移入可能な際に、自分にされたくないことは他の対象にもしてはいけないという要請が倫理法則として取り出されることであり、極めて主観的な事柄である。そのため、どうも自然主義的な態度が前提とされている現代の動物倫理は倫理っぽくないと思ってしまう。そして、こう考えると、やはり人間のみが倫理的な振る舞いをすることができるのだと思えてしょうがない。動物に自分を対象化し他の対象に代入するといった感情移入が可能だろうか?そして、その代入操作を対象化し法則を取り出すといったメタな思考が可能だろうか?不可能だろう…といったようなことを考えていた。

 課題もプログラミングも捗らなかったので、カフェを出て、本屋をぶらぶらしてみた。目に止まったのは、「いま、地方で生きるということ」「マイケル・K」というタイトルの本だった。

 最近、YouTubeで、ニートの若者が限界集落へ引っ越し、居場所を見つけて幸せに暮らしている、という動画を見たので、自然と目に止まったのだろう。

 動画を見たり、パラパラとその本を読んでみて思ったことは、結局、人間というのは、観念からなのか社会からなのか分からないが、自分を束縛するあらゆる圧力から解放されることを願い、精神的自由の獲得を求めて行動するのだ、ということである。(そして、その精神的な自由さから、倫理、つまり感情移入可能性というものが生じうる、と考えているのだが…)

 動画の中のニートの一人が「何も考えないことが一番頭にはいいんですよ」と言っていたセリフが印象的だったが、その通りである気がする。

 考えることはある意味では観念に囚われることである。行動するということはある意味では社会に囚われるということである。

 精神的な自由を求めて、原初の状態に帰るという選択肢はもしかしたら、一番賢い選択なのかもしれない。彼らは一番正しい選択をしたのかもしれない。

 ただし、こういうこと一番考えるのは、一番囚われた身になっている時であるという逆説がある。これはある種の幸福のパラドックスのなだろう。

 あぁ、考えて幸せとは何たるかを概念的に知るのが良いか、考えずに幸せそれ自体をを享受するのが良いか、どちらか一つを選ばねばならない。(これは「幸せだった」感じたのは、幸せではなくなったから、というかつて友達と議論したことに似ている。)

 さてと、観念の圧力に押されてこんなことを書いたが、その圧力も弱くなってきたので、そろそろ終わりにしよう。今日はせっかくここまできたのだ、サウナにでも行って疲れた精神を癒しにでも行こうか。また明日はバイトだし、社会からの圧力は否応なしにやってくるのだから。

 

「社会に排除された存在」と「時間の作用」

  昨日は朝6時に起きた。日曜は8時から写真撮影のバイトがあるので早起きしなければならないのだ。

  前日、寝た時間は1時半とか。睡眠時間はざっと4時間半。起きるのに一苦労どころの話ではない。目覚ましが鳴り響く部屋で、今日が日曜日でバイトがあるということを再認識し、勢いよく飛び起きた。勢いよく起きれたのは良いものの、ものすごく眠く頭が痛い。

  前日、夜中に辛いものを食べてしまっていたのでお腹も痛かった。僕は昔からお腹が弱く、すぐにお腹の調子を崩す。そのくせ刺激物を好む。なんとも矛盾に満ちた生き物だこと。

  そんな絶望的なコンディションで1日が始まった。仕事場は自転車で40分あるところなのでグズグズしていられず、絶望的な気分を無理やり追い払って出かける準備をした。

  日曜の朝は人も車も少なく、自転車を漕ぐには最適な時間だ。いつもこの時間は漕ぎ時を感じる。

  僕は気分を晴らすためと日頃の運動不足解消のため全力で自転車を漕いだ。冷たい空気が肌にあたり、少しだけ気分が変わった気がした。 (刺激というのは変化をもたらす。変化欲求をもつものが生物であるのだから、刺激を好むこともきっと間違っていない。そう、自分の刺激物指向も正当化できそうだ。)

  お腹が痛かったこともあり、途中コンビニで用を足した。お昼ご飯を買うために毎週決まったコンビニに行くのだが、そこのコンビニで用を足した。もちろんお昼ご飯も買った。

  毎週同じ店員が一人レジに立っているのだが、日本人ではない。ものすごく疲れている顔をしながらカタコトの日本語で接客してくれる。

  彼ら、安い給料で大変なことをさせられる彼らに対しての見方が、ここ数年明らかに変化していることを感じた。以前であるなら、見下す対象、反面教師として捉えていたのだが、今の僕は彼らのことを資本主義の限界を物語る証人、人間性を考察する上で貴重な存在、正直に生きている人と捉えている。

  彼らをレヴィナスの言う意味での、倫理的対象として見なせる人がこの日本社会にどれだけいるだろうか。自分の体系の中の一部に位置付け、価値の序列をつけ、見下す人が大半ではないだろうか。倫理の退廃的状況は今すぐ見直されるべきである。

  トイレに行っていたためバイト先に着くのが少し遅れてしまった。先輩、プロのカメラマンで10年くらい働いている人、ただし今も僕と変わらない時給で働いている、が既にほとんど全ての準備を終わらせていた。

  彼は僕が遅れてきたことに対して何も言わずに快く迎えてくれた。

  「ほとんど終わっちゃったよ〜。掃き掃除はやっておいてくれる?」

  とても優しい語り口で僕に指示を出した。彼は誰に対しても、どんな時でもその人の背後を考慮して接することができる、心の暖かい人間だ。こういう客観的に数値化できない価値は社会に見捨てられる。人間にとって重要であるはずの愛とか、倫理とか、それこそ社会とかの基盤を作り出すものであるにもかかわらずだ。なんとも価値の逆転した世の中であること。

  聞いたところによると、彼女がいて、数年後には結婚をする予定だそうだ。彼女の方も訳ありな感じだったが、詳しいことは知らない。それでも、この価値の逆転した世の中で、逆転させずに生きている彼となら、きっと彼女の方も幸せになるだろう。ささやかながら応援しています。

  仕事が始まった。仕事は写真を撮る瞬間と販売のセールストークの際には多少の神経は使うものの、それ以外はほとんど単純作業なので苦痛は少ない。

  こちらの方のバイトでは、上司からの理不尽なことも減ってきたので、だんだんと居心地の良い場所になりつつあるくらいだ。始まった当初は想像もつかなかったことだが。

  時間というものが物や心に及ぼす影響は計り知れない。全く、時間というのは不思議なものだ。また今度時間についてじっくり考察してみようか。以前読んだカントの時間論と永井均の時間論はとても面白かったことを思い出した。

  仕事はいつもとは何も変わらず、淡々と時間は流れた。決まった言葉で客引きをし、決まった角度でシャッターを切り、お得意のセールストークで写真を売る。この三つの繰り返し。あっという間に5時になった。

  仕事が終わった後、今日は特別にとある会社の副社長である知り合いとご飯をすることなっていたので自転車を少し走らせ街へ向かった。

  街はクリスマスムードに切り替わりつつあり、寒い冬の夜に暖色を灯していた。

  少しご飯までには時間があったのでプログラミングを勉強した。お金もないのでセブンイレブンのイートインコーナーで。

  隣の隣の席には同じように作業をしている社会人。向かいの席には女子大生がたわいもないおしゃべりをしている。ユニバがどうとか、彼氏がどうとか、そんな話をしていた。

  全く異なるタイプの僕らが、一つのセブンイレブンという建物の中でそれぞれの目的意識に合わせて行為している。このことを意識するととても不思議なことだと思うと同時に、これが人間社会なのだと思った。

  本来ならば一緒にいられないはずの人たちが、一緒に要られるようなする枠組み、それが社会である。そのためにルールが必要で、それに従わなければならない。

  社会なんていらないと思う人、ルールに従いたくない人、そんな人たちにとってはお節介にもほどがある。しかし、その社会からは逃れられない。社会の側がこれを強要するのだ。それが今の世の中となっている。

  多様性のある社会を!と言うが、社会である時点で多様性は制限されている。これは自覚的にならないといけないだろう。犯罪者は社会から排除されているのだから。本当の多様性は犯罪者に対する理解を通してのみ可能である、そう思う。カミュなどを読むのが良いだろうか。(もちろん犯罪を犯すべきなどと言っているわけではない。)

  待ち合わせの時間になった。副社長にお高いステーキ屋に連れて行ってもらえた。美味しいステーキを食べることができたし、スキルアップにつながる案件ももらえそうなお話をしてもらえた。少しずつであるが僕も社会の側に参画しつつあることを胃と脳と、あらゆるものを通して感じた。

  冷たい夜風に当たりながら、今日1日を振り返り家へ向かった。本当に何気なく過ぎていく毎日だが、この毎日が歴史を作り、社会を作っているのだと思うと感慨深い。

  写真とプログラミングと社会と、そして時間について、感じたことを思うがままにズラッと書き連ねていった。

  もう月曜の夜中である。昨日のことが一年前のことのように、遠い日のように思える。なぜだろう?現在と過去とでは、明らかに大きな違いがあるが、これは感情や刺激という観点以外に大きな差はあるだろうか?時間が許せば考えていきたいテーマである。

観光とグローバリズム

  今週の月曜からバイト先で知り合った外国人男性と二人で富士山に来ている。彼が行く予定だったところに僕もついて行くことになったのである。どのように知り合い、なぜついて行くことになったかは、またの機会に書くことにして今回は割愛する。

  彼は現在70歳で、富士山の麓の樹海「青木ヶ原」を探索することが目的であった。青木ヶ原東尋坊と並び自殺の名所として有名なところである。彼は6日間滞在する予定だが、ほとんど全ての時間を青木ヶ原で過ごしたいという。

  70歳の老人が自殺名所を探索すると聞いて、読まれている方は危険な匂いを嗅ぎつけたことだろう。実際、危険な匂いはプンプンしている。が、「大丈夫だ。問題ない。」「俺は人類学者で、自殺を研究しに来ただけだ。」と言っていたし、非常に親切で、人類愛が滲み出ている、そんな雰囲気を持っているので、ひとまずは大丈夫そうである。

  彼と過ごした旅行については書きたいことは非常に多いが、今回、彼とは別行動をした水曜日、まさに今日に感じたことを書きたいと思う。

  今日は彼はもちろん青木ヶ原へ向かったのであるが、僕は流石に青木ヶ原だけに行くのは退屈だと思って、違う場所に行くことにした。僕が決めたのは河口湖だ。ジャスト河口湖。僕らは河口湖駅で別れ、それぞれの目的地へと向かった。

  河口湖駅周辺は、山梨県の田舎とは言え、パスを少し走らせれば、ちらほらとある観光スポットへ行くことができる。富士山の力を借りることで、なんとか観光地として息をしており、潰れた店、潰れそうな店も見かけるが、観光客で賑わってる店も多い。その差はおそらく外国人ウケするスタイルを採用しているか否かにあるだろう。それほどまでに、観光客の外国人率が高いのだ。

  事実、来てみたらすぐに分かることだが、バスの中も街の道路も店の中も、そこにいるのはほとんどが外国人である。山梨の山奥の田舎にも関わらず、街で楽しんでいるのはほとんどが外国人である。

  まるで外国人に日本人が労働させられているような感じがする。彼らに仕え、彼らのために生きている、観光地の人たちは一体何のために、何を目指して生きているのだろうか。奇妙な感じしかしなかった。

  そんなこと今に始まったわけではないが、改めて実際に観光地へ降り立ち、街を歩いてみると、この奇妙な感じが胸につっかかる。(だから今これを書いているのである。)

  街を歩けば聞こえてくるのは、英語と中国語。有名なレストランに行けば中国人で埋め尽くされており、満席で入れない。店のメニューや標識には日本語だけではなく、英語や中国語も記載されている。バスの中でも運転手のカタコトの英語が聞こえ始めている。

  純粋な日本はもはや存在しない、というより存在できない。外国人へ仕えなければ、待っているのは閉店だ。我々日本人が生きるためには、純粋な日本人はやめなければならない、そんな気さえした。

  疲れがたまっていた僕は温泉に行くことを考えた。河口湖周辺は温泉街として有名で、多くの温泉施設が立ち並んでいるので、どこに行こうか迷った。

  いかにも伝統的、という旅館を見つけたので、そこの旅館の日帰り温泉に入ることに決めた。しかし、カウンターには誰もいなかった。

  誰もいなかったので、置いてあったベルを鳴らし、「すみません。」と言って、店の人を呼んだ。すると奥から現れたのは、日本人ではなく、なんと中国人だった。僕と同じくらいの歳の中国人の好青年だった。

「ここの旅館って、温泉だけ入ることはできますかね?」

「はい。ただ、温泉は3時からです。」

「3時からですか…。ところで、あなたは中国人ですか?」

「はい、中国人です。」

「どうして、ここで働いているんですか?」

「大学に行くためにお金貯めてます。」

「日本の大学ですか?」

「日本の大学です。」

「そうでしたか、頑張ってください。応援してます。」

「ありがとうございます!」

  興味本位で聞いてみた。彼は愛想よくカタコトの日本語で返してくれた。大学に通うためにここで働いているとのことだった。しかし、なぜここなのか。なぜ、日本の大学なのか。疑問はたくさん浮かんだが、これ以上聞くのはやめた。

  旅館を後にした。世界には本当にいろんなバックグラウンドを持った人がいるのだな、そう思った。一緒に来ている70歳のアメリカ人と話してても思うが、日本人のコミュニティにいるだけでは見えてこない世界は思ってた以上に広大で深遠であるに違いない。

  また、日本の観光地で、しかも伝統的な旅館で、お客ではなく、もてなす側として外国人が働いているという事実にも衝撃を受けた。実に奇妙であった。日本人が外国人に仕えているだけでなく、外国人に侵略されている、そんな気さえ少しした。

  これが現在の観光地の現状なのだろう。グローバリズムと日本の衰退によってもたらされた結果なのだろう。

  もちろん、これにはいい面がある。日本の文化的価値を世界に広めるきっかけにもなるし、日本人が外国人と触れ合うきっかけにもなる。世界が国という抽象によって分断された時代が終わり、国際国家の到来を予感する、平和を感じる瞬間にもなる。

  しかし、古き良き純粋な日本的雰囲気は失われていることは事実である。日本人の精神的な拠り所を、日本のリアルな場所に見出すことが難しくなっていることは確かなことだろうと、実体験を通して思った。

  全てのことには良し悪しがある。グローバリズムと日本の衰退という二つのことに関して、僕たちはもう少し真剣に向き合い、良し悪しについて考えないといけないのだろう。

  今、中国人の彼と出会った旅館の近くのカフェでこの文章を書いている。横にはフランス人の若い女性が座っている。とびきりの美人である。グローバリズムの問題は想像以上に複雑なのかもしれない。f:id:hesseline:20191202231029j:image

  

  

  

さらば青春の光

 昨日はゼミに参加したのち、友達Hとファミマに行った。行く途中に最近ハマっていることを語り合った。Hは最近心理学の本を読んだらしい。その中で、鎖に繋がれた像の話が興味深かったので、僕に話してくれた。

 幼い頃から鎖に繋がれており、抜け出そうとすると罰せられる環境の中で育った像は、大人になって鎖を引きちぎれるほどの力を持っても、抜け出そうとしない、という話だ。教育についてと現状打破について考えさせられる話だった。特に、現状打破について考える際にはいい題材な気がする。自分ができないと思っていることは、ただできないと思い込んでしまっているだけなのではないだろうか?反省する姿勢を持ちたいと思う。

 ファミマから出ておしゃべりを続けていると、タバコを吸いに来た友達Oと遭遇した。彼とは気が合う仲で、会えば冗談言い合って話が盛り上がる。彼といると楽しくなる。おちゃらけた道化的雰囲気を持ちながら、芯の通った図太い心の持ち主、こんなところ。

  「やあ、久しぶり。タバコ吸いにきたんか?」

  「そうやで。ここで吸ってると知り合いたくさん通るから恥ずかしいんだよね。」

   「みんなタバコ吸ってること知ってるから恥ずかしがらんでもいいんじゃね?」

  「ところで、最近なにやってんの。授業も見なくなったし。」

  「なんもやっとらんわ。強いて言うならバイトくらい。海外のために。」

  「お前はほんと極端やな。一つのことに熱中できるけど、バランスとるのは下手だよなぁ。YouTuberにでもなったら?うまくいくかもよ。」

  その通りだと思った。僕は一つのことに熱中できるが、いつものことをバランス取りながらやっていくのが苦手だ。立派な社会人ってやつは、きっと、バランスよくいろんな事をこなせるやつなんだろうな。仕事、仕事上での人間関係、家族、友人、彼女、趣味、近所づき合いなどなど。そういう、社会から要求される沢山のことを同時にこなしていくこと、これが重要なのだ。社会人とこういう人なんだ。

  「どこに就職するつもり?」

  「研究職がいいなと思ってるわ。だから、冬のインターン、研究職で申し込んでみる。俺には研究職が向いてるわ。何より客との対面がない。ストレスが少なそうなんだよ。あ、電話や。」

  Oのところに先輩から電話があり、至急研究室に戻らなければならなくなった。それを機に僕も帰宅した。帰宅した後、若干の空腹感があったので行きつけのガストへ向かった。いつもの日替わりランチを注文し、食べ終わると、本を読み始めた。太宰治の「東京八景」を読んだ。彼の文章は内容はともあれ、美しい。こんな美文を書けるようになりたいと改めて思った。こういう反省を繰り返して目標に到達していくのだ、そうと思って、自分のやっていること、考えていることを正当化した。

  ガストでしばらく過ごした後、映画館へ向かった。昨日は久しぶりに友人OKと映画を見る日であった。僕は9月に入ってから彼を2週間に1回ほど映画館へ誘うようになった。彼の人間性が好きで、なんとか彼と交流を持ちたいと思っていたのと、何より二人とも映画を見るのに植えていたので、積極的に誘った。くだらない人生の門出、彼の場合は就職、に対して、メンタルをやられないようにするために。もっと、深く人生を洞察し、より良くいきられるように。というのは建前に過ぎないかもしれない。

  さらば青春の光、という映画を見た。この映画はずっと昔の映画らしいが、最近フルカラーでリメイクされたらしく、それを僕らは見た。まあ、リメイクされるくらいだから名作なのだろうと思って期待して見た。結果、期待通りのいい作品だった。

  モッズという戦後のイギリスの若者文化についての映画で、その主人公(ジミー)が、まあ破天荒。モッズ一派に属し、友達夜遊びに明け暮れ、好きな人もできる。ただ、皆の注目を浴びたくて、好きな人に振り向いて欲しくて、自分の存在感を高めるためだけに破天荒を演じるしかなかった。しかし、そんな彼を社会は許してくれず、彼はついに逮捕されてしまう。

  そこからどん底へ突き落とされることになる。仕事も辞め、友達と喧嘩別れし、好きな人にも振られる。尊敬していた先輩にも裏切られ、行くあてがなくなり、どうしようもなくなった主人公は、盗んだバイクで走り出す。遠い遠い誰も知らない所へ。

  僕はこの映画を見てスカッとした。男らしくカッコいい、と素直に思った。と同時に、彼のように自らの信念に忠実な、ある意味で正直に生きている者は、社会からはゴミのように扱われ、端へと追いやられ、抹消される。こんな社会が本当に良い社会なのだろうか?という疑問も抱かせてくれた。

  いつも言っていることでもあるが、少数派は抹消される運命にある。多様性、多様性と口にする人は多いが、本当の意味での多様性とは如何なるかを理解し、自分の態度を変えている人はほとんどいないように思う。結局、自分の都合の良い社会であってほしいと願うわけだから。

  今の社会は多様性を受け入れる方向へ向かっているだろうか?それとも、同著圧力が強くなる一方で、知らず知らずの内に一つの枠に押し込まれてしまっているのだろうか。

  周りの友達が就活をしているのを横目に見ながら、自分の青春の光ともおさらばしなければならない日が着々と近づいているのだなと思い、記事を書いている。

  さて、僕はジミーのように、たとえ社会が理不尽なことを要求してこようとも、自分の信念を曲げずに立ち向かうか、現実であると受け入れ安定した生活を送るか、それとも、理想の地を求めて旅に出るか。選択が迫られている。

  

敗北した挑戦者

 昨日は朝から写真撮影の仕事をしに、40分かけて自転車を走らせた。最初はとても寒かったが、時間もなかったのでペダルを全力で漕いだ。途中から体が熱くなってきた。外の気温と、体温の差が絶妙な点になり、気持ちよく感じた。

 日曜の朝の道路はいつもと違って落ち着いていて、自転車を漕ぐ僕みたいな人にとっては都合の良い時間帯だ。気持ちのいい風が、日焼け止めを塗った顔の肌を吹き抜ける。今日は昨日よりはいい日になりそうな気がした。

 朝の風が吹き抜けるビルの間の歩道に、人々の姿を見た。人々は実に様々な格好をして、歩いたり、つったたりしていた。スーツを着て毎週同じ時間に同じ場所を歩いている男、ホテルから出てくる若い女、コンビニの喫煙所でタバコをふかす中年、道端でモーフを広げて寝ているホームレス。

 この街には、たくさんの種類の人間が生息し、街を形成している。街の平安や活気は、きっと、この多様性が支えているのだと思った。近年の日本社会を覆っている同調圧力に屈することなく、これらの人々は立派に生きている、そうも思った。

 自分とは全く異なる格好の人が本当にたくさんこの世界には存在している。そして、これらの人にも、自分とは同じような意識があるのだと思うと、時々驚愕することがある。人間の神秘、自分の力では到底及ばないものが、この世界にはあるのだと、つくづく思う。

 こんなことを思っていると、いつの間にか仕事場についた。40分という時間は家を出る時には長く感じるが、あとで振り返れば一瞬だったように感じる。この意識経験としての時間についてはもう少し深く考察してみたいと思う。

 はじめは社長と僕の二人だけだった。仕事をし始めた当初は、理不尽な言動で困らせてきた社長だったのだが、最近は顔が柔らかくなり、幾分接しやすくなった。寿司屋の職人とは大違いだ、全く。

 社長から興味深いことを聞くことができた。社長の昔勤めていた会社は、写真の撮影・販売の他に不動産もやっているところだったらしく、不動産がらみの闇をよく知っているとのことらしい。何気ない会話の中で、そう口走っていた。

 その闇とは、暴力団がらみのことである。借金を抱えてどうしようもなくなった家には、暴力団が嗅ぎつけ、不動産会社も介入できなくなるらしい。彼らがその家を安く買い叩いて、活動の資金源にするのだという。

 社長はこの話を通して、経営者、リスクを犯して挑戦することがいかに危険な綱渡りであるか、ということを語った。経営者で、事業拡大を目論見、それが失敗し、借金を抱え、返済不可能になる。こんなことは挑戦心のあるものになら、誰にだって起こり得ることであることを感じさせた。実際、社長は、青年時代のバブル崩壊期に、たくさんのそういう敗北した挑戦者をみてきたのだそうだ。

 敗北した挑戦者は、借金を抱えた挙句、家や土地は暴力団に奪われ、家族や親戚に見せる顔がなくなる。雑踏へと逃げ込み、身元をくらまし、浮浪者、ついにはホームレスとなるのだそう。現に街角で見かけるホームレスは、敗北した挑戦者であるということである。

 ホームレスを見て、つくづくその生きる意志の強さに驚かされることがあった。なぜそこまでして生きるているのか、と。もちろん、何も考えていないから、というのも一つの答えだろう。しかし、それ以上に、彼らは挑戦者であったのであり、生への強い意志が生得的に備えられており、その生得的なものに逆らえずに、生き延びざるを得ないのだろう。

 「ああ、人生よ。偶然に翻弄され、強きものが堕ちていくこの世が、一体正常であると言えるだろうか?」

 ホームレスに対する眼差しがまた少し変わりそうである。彼らの奥に眠る、汚れてしまった宝石が、僕の中では輝き出した。汚れたままに。